真面目で退屈な日本人の写真

2025.07.21PHOTOGRAPH and WOLF

SONY α7CII / Voigtlander ULTRON Vintage Line 35mm F2

嘘をつかず勤勉で規則に忠実な「真面目な人」が、昔から高く評価されてきた。時代が変わると「真面目な人」は「退屈な人」と言われるようになり、そういう人は男でも女でもモテることはなくなったが、結婚相手やビジネスパートナーに求める人間像は相変わらず「真面目な人」である。派手でスリリングな日々よりも着実で安定した生活を理想とする現代では「真面目」に対するニーズが良くも悪くも加速しているように思う。真面目。改めて口に出して発音してみると、何の味も感じられないスポンジを咀嚼しているような気分だ。悪い言い方をすれば、主張がなく味がなく、どことなく消極的に感じられる世界である。

真面目というマインドからは、革新的で創造的な発想は生まれにくい。自分が比較の対象になった場合に「僕、とにかく真面目なんです。」というのが最大のセールスポイントだったとしたら、それは説得材料としてあまりにも弱すぎる。誠実で実直で努力家で約束を守って嘘をつかないといった初歩的で基礎的なスペックだけで渡り歩けるほど世の中は甘くない。しかしその一方で、近年増加し続けている外国人旅行者が日本の何を高く評価しているかといえば、電車が時間通りに運行するとか、ゴミが少なくて街が綺麗だとか、他人に迷惑をかけないとか、ホスピタリティがあるとか、それらは我々日本人の「真面目さ」が幹となっていることが多い。彼らは自分たちが暮らす国と比較して、規則や約束を守って他人に迷惑をかけないようにする僕らの国のことを「別世界」と表現する。どうやら我々の当たり前は、世界ではかなり特殊な価値観のようだ。どんなにテクノロジーが進化してもどこかのバカどもがいつも戦争したがっていて、バカは死ななきゃ直らないと言ったものだが例え死んでも遺産と共にバカを息子や孫に引き継いでしまうのでなかなかバカが死滅しないのだ。そういうバカどもは他人の迷惑などどうでもいいのだ。どうして普通に仲良くできんのかね。戦争ごっこの欲求はオンラインゲームか何かで消化して、それでもどうしてもやりたいなら火星あたりで勝手にやってろ。心の底からそう思うが、争い事の少ない平和な日常があって真面目で勤勉な人が報われるような世の中であって欲しいと願う優しめなマインドは、もしかしたら日本人独特のモラリティなのかもしれない。

LEICA M11 / Thypoch Eureka 50mm F2

LEICA M11 / MINOLTA M-Rokkor 28mm F2.8

SONY α7CII / MINOLTA M-Rokkor 40mm F2

意識せずとも我々は民族的な傾向に縛られて生きている。例えば写真を撮っていて、大胆に世界を切り取ったり、遊び心溢れる写真を撮りたいと思って試行錯誤しても、気づくと「真面目」に引っ張られて割とまともで平凡な写真に落ち着いてしまうことがある。ことがある、というよりほとんどがそうだ。まとまりのあるフレーミングをしたり、ピントの精度や被写体ブレを気にしてシャッタースピードを設定したり、水平垂直をとったり、極端な画像編集を避けたり、そういうことの1つ1つが「あぁ、やっぱり日本人なんだな。」と思い知らされる。今日はそういうチマチマしたことは忘れて、より感情的に直感的にシャッターを切っていこう、そう思って1日撮り歩いても、撮った写真を現像してみると何だかんだと「丁寧な仕事」という枠組みから抜け出せない自分を再確認することになるのだ。

SONY α7CII / Thypoch Eureka 50mm F2

SONY α7CII / Thypoch Eureka 50mm F2

例えば、自分の写真でも他人の写真でも雑なフレーミングが好きじゃない。撮っているもの自体は悪くないのに、写真の端の方に残念なものが写っていると途端に萎えてしまう。それは料理と同じで、素晴らしい料理が盛られた皿の端っこにちょっとだけウンコがついていたら食べる気にはなれない。それが例えほんのちょっとのウンコだとしても無理だ。自然界の雑然とした風景を撮っていても、写真の隅がどのような終わり方をしているのかを必ず気にしてしまう。もちろんそういう些細なことは最も優先すべきことではなく、言ってみれば「基本中の基本」で声を大にして強調するほどのことではない。そしてその「基本中の基本」をしっかりやってしまうところが、自分でもあぁやっぱり日本人だな、刺し身と漬物と米があれば生きていけるねと思ってしまうのである。

世界の都市を日本人が歩いていると、ほとんど同じ見た目の韓国人や中国人とは違う何かがあって「彼は日本人だ」とわかるらしい。我々は単一民族の歴史が長いので多民族に触れ合う歴史が浅く、日本人と韓国人の違いやインド人とネパール人の違いを瞬時に識別することが難しい。しかし、海外の人に言わせると何となく日本人特有の雰囲気があって、それが「匂う」ようだ。恐らく写真も同じようなことが言える。この写真、日本人っぽいね。と、そういうことである。それは恐らく、良く言えば「繊細な写真」悪く言えば「主張が少なく退屈な写真」である。

SONY α7CII / Voigtlander COLOR-SKOPAR Vintage Line 21mm F3.5

SONY α7CII / Voigtlander COLOR-SKOPAR Vintage Line 21mm F3.5

SONY α7CII / Voigtlander COLOR-SKOPAR Vintage Line 21mm F3.5

Nikon Zf / Voigtlander COLOR-SKOPAR Vintage Line 21mm F3.5

我々日本人には、誇張された表現よりも自然な佇まいを好む傾向がある。そして奇抜なものよりも簡素なものが好まれる。それは写真館で撮影される家族写真にも顕著に現れていて、海外では背景に絵画があったり柄があったり主張の強い仕上がりが好まれているが、日本人が写真館で撮る家族写真は大抵白バックだ。もちろん昔と今では美意識や感性は違う。それでも、根っこにあって離れられないのが民族的な傾向というものなのだろう。何をやっても、どこかしら「日本人臭い」。

何年も熱心に写真を撮ってきたが、誰もが行きたくなるような絶景を拝める場所に行って写真を撮るよりも、身近でいつでもそこら辺にあるような小さな世界に美しさや面白さを発見しようとしてきた。そういう自分の趣向を改めて俯瞰すると、やはり日本人の感性の枠組みの中で生きているのだと実感する。強くもなく弱くもなく、乾いてもなく濡れてもいない、いったい何を撮ったのかよくわからない日本人のテイストを毛嫌いし、海外の作家の写真を見てはうーむやっぱりコイツらの感性はいいねぇと羨ましく思いながら写真を撮ってきたが、よくよく自分の写真たちを眺めてみると、見事に日本人らしい写真であることを思い知らされる。だが、それは決して悪いことではない。以前はそうは思えなかったが、いまは違う。真面目で退屈な写真、それのいったい何が悪いというのだ。

SONY α7CII / Voigtlander NOKTON Classic 35mm F1.4

上手な人の真似をすることが、早く上達するコツだと言われてきた。それは事実だと思う。しかし、真似事はいつか必ず飽きる。リスペクトできる海外の作品を真似てみるのも楽しい時間だが、結局のところ「真面目で退屈」な写真に戻って来る。意図せず戻ってくるなら、きっとそれが自分の居心地のいい場所なんだろう。大切なのは「真面目で退屈」な傾向をベースにしながら、自分の世界観を強く創作できるかどうかだ。

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