クソ野郎が撮る写真

2023.09.03PHOTOGRAPH and WOLF

LEICA M11 / Voigtlander APO-SKOPAR 90mm F2.8

写真、写真、写真。毎日のように写真のことを考えてきたのに、この夏はそんなことができなくなった。愛犬が亡くなったからだ。僕の愛しい子供は心の底から優しい心根を持ったいい子で、最期の瞬間を夫婦で見守る奇跡を与えてくれた。僕は妻の悲しみが大きすぎて体調を崩さないよう、遺体の保存から火葬までをなるべく素早く終わらせ、悲しみの緩和に注力した。30歳を過ぎても夜な夜な飲んだくれて青山通りに汚いものを吐き出していたどうしようもない男のわりに、自分でもよくできたと思う。だが、愛犬が亡くなって1ヶ月にも思える1週間が過ぎ、また1週間が過ぎて、やってきたのはとてつもない喪失感と空虚、そして自分が「クソ野郎」だという真実だった。

LEICA M11 / Voigtlander APO-SKOPAR 90mm F2.8

愛犬がこの世を去って、はじめにやったのは遺影写真となる写真をレタッチしたことだった。その次にしたのは、15年間撮ってきた愛犬の写真の中からいくつかピックアップして銀塩プリントに出すこと。1点選んではプリント用に色補正してLサイズに自分でレイアウトしたフォーマットに入れていく。それは思いのほか大変な作業で、自分の悲しみを緩和するのに大いに貢献してくれた。注文した写真が届くのを待てなくて何度かインクジェットのプリントを試したが、デジタルデータを元にしていてもやはり銀塩プリントの方が階調がなめらかで気持ちいい。届いた112枚の写真をさらに選別してキッチンに設置したボードに貼る。時間が経てば何でもかんでもすぐに忘れてしまうのだ。写真を貼り出したのは、愛した犬の記憶を何度も反復して、可能な限り忘れたくなかったからだ。何年も前に自分が撮った写真を観ながら、何度も泣く。写真を観て泣くのは初めての経験だ。心の底からいい子だったなとか、苦手な動画をもっと録っておけばよかったなとか、そんなことを思いながら結局涙が出る。しかし、そんな日々は永遠に続くはずがない。その後に続くのは、意外に早い日常への復帰と、どうしようもない自分への憤りだ。

OLYMPUS PEN-F / LEICA Summicron 50mm F2 Collapsible

自分の過去の行動を悲観するのは意味がない。よく考えれば誰だって「クソ野郎」なわけだから、えなりかずきの代名詞「だってしょうがないじゃないか」や、相田みつをの名作「人間だもの」に納得して諦めるしかないのだ。友人をいじめ、母親を罵倒し、恩師を裏切り、他人を蹴落とし、年配に説教し、平然と人を傷つけてきたクソ野郎にとって、暮らしを共にしてくれた妻と犬たちには感謝しかない。クソ野郎にとって感謝とは礼儀ではなく、心の底から情けなく響く「許しを求める小さな叫び」なのだ。

もう10年近く経つが、僕のせいで妻が体調を崩してしまい、一切アルコールを受け付けない体になってしまった。1適も飲めないわけじゃないが、ダメージが大きいのだ。アルコールが復活することはないだろう、そう思ってきたが愛犬の死去でよくも悪くもあっさりと復活してしまった。能の動きを緩めないと耐えられないと思ったのだろうか。僕はまた、あの頃のクソ野郎に戻ってしまうのだろうか。

愛犬については、昔懐かしのコミック「北斗の拳」の名セリフのごとく「一片の悔いなし」と言えるほど愛情を注いできたつもりだ。だが、過去を振り返れば、すがるように見つめる我が子を横目で見ながら「面倒くさいな」「仕事してるからあっち行ってろ」「今日はマシマシでウザいね」と無視することも数多くあった。そこら辺が、どんなに頑張っても「クソ野郎」の限界だったのかもしれない。自分の仕事や感情よりも遥かに価値のあるものがある。そんなことはわかっていながらも1mmも行動できなかった。だが、それはそれで諦めるしかない。何たってクソ野郎なわけだから。どんなにコンプライアンスを厳守している人でも、人である以上殺傷をはじめ様々な罪を犯している。それに気づいているか、気づかずに平然と生きているか、その差でしかない。結局のところ、僕と同じ「クソ野郎」であることには違いない。人は誰でもどうしようもなく「クソ野郎」だ。だから、結局、できることをするしかない。どうせ「クソ野郎」なら少しだけ素敵な「クソ野郎」になるまでだ。

まだ、写真に没頭する気になれない。このWEBサイトも続けていくのかどうかわからない。クソ野郎が心底クソ野郎だと気づいた後に、どんな写真を撮れるのか。いまは、まだわからない。

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